リ・ウファン

こども造形教室ノート 『見ること、向き合うこと』

”絵を習う少年に – ある中学生への手紙”という項の冒頭に次のようなことが書かれています。
「・・・ところで小学生の時から、好きなように自由に描くことを勧められてきたそうですね。実は子供の頃から好きなように自由に描け、などと言う先生は間違っています。大人だって自由に描くことなど、なかなか出来るものではありません。そういう言葉は、自分と向き合っているものから目を逸らすように言われていることで、そんな状態では、生きるという現場感覚が抜けてしまいます。手掛かりの薄い思い込みで、画面をいじくりまわしてみたところで、手応えがあったり面白かったりするはずはなく、ましてや責任の持てる表現が出来るわけもありません。・・」
仰けから、ズバリと言い切ります
これは美術家のリ・ウファン『余白の芸術』に掲載されているものです。
教室では「見る」という行為を殊更大切にしたいと思っています。絵を描くのだから当たり前ではないか、と思われるでしょう。そう当然です。しかし子どもは元より大人に至ってもその当たり前は甚だあやしい行為にも成りかねません。そこにある‘物’や‘対象’には存在としての現実があります。それに対峙し描いたり造形したりすることはテクニック云々以前の根本的な向き合い方が必要だと考えています。
6、7才にもなれば物を見るということに向き合える年齢になっています。でもそれまでに描いてきた経験から顔の輪郭、目、鼻などは言わば「抽象化」されてインプットされています。『顔(自画像)を描く』という取り組みでも、見てはいるが、自分が一般化して認識している‘目’を描いたり、形の良い‘鼻’を描いたりすることは特別な行為ではありません。でもどうでしょう、顔は平面ではありません。鼻も人それぞれに高かったりちょっと低かったり。それをどう平面上に描くのか、そこで考える。どう線で表現したら良いか、色で立体を現せるのか・・等々。これこそが疑問を持ったり工夫を考えたりする行為に広がります。

描くことに留まらず、例えば木の四方立体を制作していて寸がつまった時など、さあどうしよう、寸法を合わせて短くしようか?待てよ、木っ端で継ぎ足しをしても出来るぞ、などと考える行為が「見る」あるいは「観る」ことの本質に向き合うことだと考えます。
これは何も絵を描くこと、造形することに特に限らず表現する行為全てに通ずるものであると思います。『小説の書き方』(野間宏編)の中で伊藤整が注意力について次のように述べています。「ここにAという人が、人の表情というものを、いつも注意深く見る性質を持っているとする。するとその人は、一般の人がある女性を見て、愛らしいとか美しいとか決めてしまうとき、その人は、その女性が顔つきは平凡なのだが、ある特定の表情をするときにだけ美しく見えるのだ、ということに気がつくだろう。その点をその人が文章に書き表すことができれば、それは、第一にその女性を正確に描くということにおいてリアリズムを実現したことになり、また第二には、人間の顔の美しさには、特定の表情をした美しさと、形自体の美しさとの区別がある、という一般的な真実をとらえることにもなるだろう。」

先の『自画像を描く』の回では次のような手順で描きました。まず、鏡を見てまず自分なりに描く。②次に好きな部分だけ(手などでも良い)を良く観察して描く。

「見る」ということは、現実を注意深く観察し、表現するという自己責任行為であり、発見する楽しさも包含しています。

ホーム > タグ > リ・ウファン

Search
Feeds

ページトップへ