エジソン

仕事とアートのフシギな関係

コンサルタントとして企業の改革・改善に関与していた頃に小関智弘さんを知った。と言っても書物を通してであるが、2002年まで50年以上も現役の旋盤工として働きながら町工場の実態などを精力的に伝え、直木賞、芥川賞の候補にも上がったほどの書き手である。
特に参考になったのが現場の仕事言葉の多様さである。鉄を削る時の言葉だけでも「削る(けずる、はつる)、挽く、剥る(へずる)、きさぐ、揉む、たてる、さらう、なめる・・」コンマ数ミリ仕事の相違や仕上げの違いでこれだけある。機械を使う「数値」だけでなく豊な言葉のニュアンスを手ごたえで知っているから良い仕事ができる、ということである。もともと日本の言葉は豊かである、雨は「時雨」「村雨」「驟雨」など。色は、ねずみ色でも利休だの深川だの嵯峨ねずみだの何種類もある。
仕事はどちらかといえばはっきりと言葉を‘コード化’しないと論理だって結論付けていくことができないと思いながらEラーニングなどを開発していた当時、微妙なニュアンスで事に取り組む現場と職人の世界に感動すら覚えた。職人で思い出すのが、薬師寺西塔の再建の際に東塔より30cm高く仕上げた理由が、木の収縮により200年後に同じ高さになるという恐ろしいほどの経験値と洞察力。自分がやってることは本当に仕事なのか?と問いかけられるほどのものだったのを思い出す。ものを伝承するとか、ものを解り一緒に仕事をすることは、実に理屈ではなく事への情熱や他人への共感などがない交ぜになって形成されるものであるということであろう。

白山に来られたお客さまが、偶々大学教授。話をするうちに「学生に講義をしてもらえないか。異分野で活動してる人の話を定期的にやっているので」ということで、ネタを考えていたら前段のようなことを思い起こし、テーマは「仕事とアートのフシギな関係」に。
その中で取り上げた一つが小関智弘さんの著書でも紹介されている「缶詰の安全なプルトップ」。これこそが仕事であり発明でありアートの要素に極めて通じる例であることから、簡潔に紹介します。

開発したのは谷啓製作所の谷内啓二氏で大田区にある従業員7名の町工場。TVの世界一受けたい授業にも登場した人。富山の中学を卒業後、上京して金型工として工場を渡りながら修行し、プレスの金型作りの会社を起こす。金型作り50年の大ベテラン。転機は70年代の後半にやってきた工場の機械化(ME化)。コンピュータ制御でロボットによる無人化が進むが「ウチではコンピュータに出来ない事をやろう。机上の計算だけではできないことに取り組もう。」と独自の路線を進む。安全なプルトップ開発の切っ掛けは、アメリカの損害賠償の新聞記事。缶詰事故によるPL法での損害賠償が激増し、あるピアニストが1億円の訴訟を起したとのこと。缶詰メーカー1社だけでも年間千を超えるトラブルがあった。世界中で年間三千億個もの普及品なのに、工夫が足りない。日本でも大手メーカーや大学の研究室が束になっても進まない。これは商売のチャンス!と谷内氏は開発に取り組む。取り組んだのは、まずは工夫。何が、違うか。接合・切断面の工夫。切り口そのものでなく、S字状のループにし、取った後自然に内側に巻き込まれ隠れてしまうような構造を思いつく。

しかし構造は考えついても、取る力と鉄の応力の釣り合いが難しく取れなかったり、切り口がうまく隠れなかったりと試行錯誤。機械でも計算できず、実現には職人としての勘と感覚がモノを言う。千分の一ミリを勘を頼りにS字の形や位置を決めていく。成功までに5年間を要し失敗作は150を超えるほどに。工場が2つ建てられるほどの投資だったとか。見事な執念。これもきちんとした技術の領域を理解していたから出来たことでもあるが大事なのは常識に頼らす「構造的」に仮説を設定し、それを勘や閃きを駆使して工夫を重ねる。認知するところの多様さはアートそのものではないか!と思ったものである。エジソンは「天才とは1%の閃き(inspiration)と99%の努力(perspiration)のたまもの」と述べたが、1%でも閃きがあれば不可能なことではない。しかし閃きがなければ何もはじまらないということの好例であろう。
ちなみに開発後、谷啓製作所は特許を60件以上取得し、30もの国から工場視察にやってくるまでになったとのこと。
スライドは学生に話した際のスライドの一部です。

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